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2008年10月08日

歴代将軍正室の出自

家康 不明* (通称)築山殿 (法号)西光院 (出自)武家:今川義元の姪
    旭(朝日)* (通称)駿河御前 (法号)南明院 (出自)武家:豊臣秀吉の異父妹


秀忠 お江与(お江・お達) (法号)崇源院 (出自)武家:豊臣秀吉の養女 
                                実母は織田信長の妹


家光 孝子 (通称)中の丸様 (法号)本理院 (出自)摂家:関白鷹司信房の娘


家綱 浅宮顕子 (法号)高巌院 (出自)宮家:伏見宮貞清親王の娘


綱吉 信子 (通称)小石君 (法号)浄光院 (出自)摂家:前左大臣鷹司教平の娘


家宣 熙子 (法号)天英院 (出自)摂家:左大臣近衛基熙の娘


家継 八十宮(吉子内親王) (法号)浄琳院 (出自)皇女:霊元上皇の娘(婚約のみ)


吉宗 真宮理子* (法号)寛徳院 (出自)宮家:伏見宮貞致親王の娘 
                         吉宗の将軍就任前の正室 宝永7年流産のため没


家重 比宮培子(増子)* (法号)証明院 (出自)宮家:伏見宮邦長親王の娘


家治 五十宮倫子 (法号)心観院 (出自)宮家:閑院宮直仁親王の娘


家斉 寔子(篤姫・茂姫) (法号)広大院 (出自)摂家:右大臣近衛経熙の養女 島津重豪の娘


家慶 楽宮喬子 (法号)浄観院 (出自)宮家:有栖川織仁親王の娘


家定 有姫(任子)* (法号)天親院 (出自)摂家:前関白鷹司政熙の養女(実は妹)
    寿明姫(秀子)* (法号)澄心院 (出自)摂家:関白一条忠良の娘
    敬子(篤子) (法号)天璋院 (出自)摂家:右大臣近衛忠熙の養女 
                          実父は薩摩藩主島津斉彬の叔父忠剛、斉彬の養女


家茂 和宮(親子内親王) (法号)静寛院 (出自)皇女:孝明天皇の妹


慶喜 美賀子(延君) (法号)貞粛院 (出自)摂家:権大納言一条忠香の養女


*将軍就任以前に死去


参考書物:江戸博覧強記


タグ:将軍正室
posted by tenshinoasobi at 19:18| Comment(20) | 徳川将軍について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月12日

ドラマを観て…

 ドラマ「大奥 〜第一章〜」の再放送が昼間にやっています。
 私は、毎日録画をして、自分の都合よい時間に観ています。


 春日局役の松下由樹さんがとっても怖いです。
 実際の春日様がどんな方だったのかは知る由もなく、ただ、ドラマで演じられる春日様は女の怖さを強烈に醸し出しています。


 将軍についての記事がひと段落したら、大奥について記事を上げていきます。


タグ:大奥
posted by tenshinoasobi at 21:23| Comment(16) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月09日

将軍の一生 【婚礼】

 将軍の正室は御台所といい、御三家・御三卿、将軍世嗣の正室を御簾中(ごれんじゅう)といいます。
 十五代の将軍いずれにも正室はいましたが、八代吉宗の正室真宮(さなのみや)は吉宗の将軍就任職前に死去しているため、御台所にはなっていません。


 また、七代家継の正室八十宮(やそのみや)も、実現していればはじめて皇女の正室となるはずでしたが、縁組の弘めが行われ結納まで済んだ後に、家継が死去したため京都から下ることなく、わずか5歳で未亡人となりました。
 このため、彼女も御台所ではなく、結婚の実態はなかったのに御簾中と呼ばれ、その後45歳で死去するまで幕府から合力米として毎年5百俵が与えられていました。


 三代家光以降の正室は、皇女二名、宮家子女五名、摂家子女八名という内訳です。
 数が合わないのは、十三代家定が二人の正室に先立たれ、三人の正室をもったためです。この三人目が天璋院です。


 婚礼の儀は、将軍世嗣の誕生と並ぶ慶事であり、諸大名総出の祝賀が行われました。
 経費も莫大で、十代家治正室の五十宮(いそのみや)下向の際は3000両の下向御用金が用意されています。


 歴代で最大の慶事は、十四代家茂と和宮との婚礼で事実上はじめての皇女との婚礼であったため、幕府の威信にかけて盛大な祝賀が行われました。
 この婚礼全体の経費は不明ですが、婚礼道具を取り揃えた際の記録によれば、2000品目以上の道具に対して金約1万2000両という経費が支払われています。
 他に、京都への進物経費に約4万3000両、勅使の道中経費約8600両、中仙道などの道路修繕に約3万3000両といった出費も幕府財政記録に見え、相当額の金銭が費やされたことがわかります。



参考書物:江戸博覧強記



タグ:将軍
posted by tenshinoasobi at 19:25| Comment(0) | 徳川将軍について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月02日

将軍の一生 【元服】

 武士は一般に元服を経て成人とされますが、実質的に成人と認められるのは、前髪を落とす前髪執(まえがみとり)の儀礼を終える数え17歳前後です。


 しかし、将軍家男子の場合、必ずしもこの年齢ではなく、元服は前髪執とずれることが多いそうです。
 早期に将軍家男子として認知する必要からか、元服は成人年齢とは関係なく比較的早く前髪執はある程度成長してから行われてたとのこと。なお、将軍家男子の元服前の髪型は、肩のあたりで紙を切りそろえる童形でした。


 また、元服時には髪を結って烏帽子をつけ、幼名から諱を名のり、官位が授けられます。
 将軍家の元服の儀式では、烏帽子をかぶせる加冠役は彦根藩井伊家当主、髪を結い上げて髻(もとどり)をつくる理髪役は会津藩松平家当主が勤める習わしになっていました。


 朝廷からの勅使が下向して宣旨(天皇の命令)、位記(位を授けられた者に与える文書)が授けられる元服の儀式次第は、将軍の嫡男であればいずれにも共通しています。
 将軍世嗣の場合、元服時には権大納言に任官され「大納言様」と称されるのが通例で、三代家光と四代家綱は従三位となりますが、九代家重以降は従二位が通例となりました。


参考書物:江戸博覧強記


タグ:将軍
posted by tenshinoasobi at 16:56| Comment(0) | 徳川将軍について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月27日

将軍の一生 【誕生】

 江戸幕府の成立後に誕生した将軍は、家康、秀忠を除く13人です。
 このうち長男は四代家綱(いえつな)、六代家宣(いえのぶ)、九代家重(いえしげ)、十代家治(いえはる)、十一代家斉(いえなり)十四代家茂(いえもち)の六人ですが、六代家宣(甲府家)、十一代家斉(一橋家)、十四代家茂(紀州家)は養子として将軍家を継いでいるため、前将軍の直系長男に継承できたのはわずかに3人になります。


 将軍もしくは将軍世嗣の長男として誕生した場合、二代秀忠の長男長丸(ちょうまる)と六代家宣の長男家千代を除き、家康の幼名である竹千代と名づけられました。
 家康以外で竹千代を名乗った男子は、家康の長男岡崎信康など7人です。そのうち将軍になったのは三代家光、四代家綱、十代家治です。


 なお、正室の子として生まれ将軍になったのは、三代家光、十五代慶喜だけで、他はみな妾腹でした。


 十二代家慶(いえよし)の例では、寛政5年(1793)5月14日、本丸大奥で誕生。
 七日後に命名の儀があり松平敏次郎と名づけられる。
 6月24日、長男竹千代が数え2歳で死亡し、敏次郎が事実上の長子となり、将軍嫡男として扱われます。
 7月3日には葵の御紋を授与され、9月15日に御弘めののち「若君様」と称することが触れ出され、奥での序列が御台所に次ぐ第二位となり、12月1日、将軍世嗣の住居である西の丸御殿へ移ります。
 寛政8年12月1日には「家慶」の諱(いみな)を賜り、翌年正月21日に数え5歳で御袴着の儀(おんばかまぎのぎ)を行い、一応幼年期の儀礼が終了しました。


 なお、将軍の子として生まれた場合、世嗣以外であっても世嗣として位置づける儀礼を除けば、成長過程における基本的儀礼は世嗣と同じでした。




 参考書物:江戸博覧強記


 

タグ:将軍
posted by tenshinoasobi at 08:06| Comment(5) | 徳川将軍について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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